2014年1月15日水曜日

宗教のいいとこ取り


うちの家族は、私が無宗教に近い仏教徒、妻がイスラム教徒、息子が無宗教、娘がキリスト教徒である。娘以外は生まれたときの環境がそうだったというだけで、自分で宗教を選んだ訳ではない。

 

娘は小さいころからプロテスタント系の教会に通っていた。オーストラリアという土地で友達のほとんどが教会に通っていたという事情による。私はキリスト教でなく、妻はイスラム教であったが、娘が教会に通うことを止めたりしなかった。

 

その理由は、キリスト教の教えに関して子供の教育によいと考えていたからだ。自由、平等、博愛の精神は一宗教の範囲を超えて全人類に望まれるものだと思う。もちろんキリスト教の歴史を観ると、そんな甘いものではなく、十字軍、魔女裁判など暗い歴史がたくさんある。

 

宗教というのは、頑固じいさんのように、自分の教えを唯一絶対だといい、実際には数々の矛盾があるのにそれを認めない。それゆえに宗教を非難する人は簡単にその矛盾を見つけることができ、多くの矛盾を指摘することで、つまり矛盾律という戦法で宗教の脆弱性を攻める。

 

しかし、宗教者は論理学を学んだことがないのか、数々の矛盾を指摘されてもビクともしない。彼等は到底論理的な世界に生きていないのだ。ちょうどプロレスファンがプロレスは八百長であるとわかっていても、プロレスが始まるとそんな気持ちは吹き飛んで、真剣に応援するようなものだ。つまり宗教者に矛盾律で対決を望んでも無駄だということになる。

 

宗教者がそういう態度であれば、私もそれでいいではないかと思っている。つまり私も宗教の悪い所を無視させていただいて、良いところだけをつまんで信じようと思っている。

 

キリスト教で言えば、全ての人を愛するという精神は信じるが、キリストが神の子で、いろんな奇蹟を起こしたというような話は信じない。イスラム教でいえば、ほとんど共感するところがないが、唯一、一夫多妻はよいところか??

 

私はかつて若気の至りで、宗教の矛盾を突くのが快感であった。大の大人がこんな簡単な論理がわからないのかというように自分が頭がよいということを自慢したかったのだと思う。しかし、宗教を攻撃しても、糠に釘で、なにも起こらず、誰もほめてくれず、私の行為がまるで何もなかったかのように地球は回る。そのうち宗教が悪いのではなく、きっと自分の方が悪いのだと気付く。

 

最近中国で、キリスト教や孔子の教えが復活しているらしい。理由は、共産党政権で否定された宗教によって、人々の道徳や隣人愛などが希薄になり、道端で車にはねられて倒れていた二歳の少女に誰も手を差し伸べなかったという悲しい事件が起こったりしたからだ。マルクスが言った「宗教は麻薬」という言葉を逆手に取れば、宗教がなくなった社会もまた人から愛の心を奪った麻薬社会であったようだ。

 

最近機会があって18歳になった娘に教会通いを許している理由を話したことがある。「お父さんは、キリスト教の全てを信じている訳ではないが、彼の教えた自由、平等、博愛の精神が好きだから許している。だけどもそれ以外はほとんどつまらぬことだと思っている。父が本当に望むのは、キリスト教がなくても、お前が自分でキリストのような愛の精神を持つ人になることである。」

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